人は愛されたい生き物

ドイツの社会心理学者、エーリヒ・フロムは「愛するということ」という本の中で「愛は与えることであり、もらうことではない」と述べていますが、その言葉が先日、愛犬が亡くなった時にズドンと心に落ちてきて、「私は、愛されたかったんだ」と気付いた瞬間に涙がボロボロとこぼれ落ちました。

愛犬の死から学ぶこと

愛犬との出会いは、まるで恋に落ちるように始まりました。ペットショップのガラス越し見た愛らしい仔犬の姿に一目ぼれでした。

ペットは家族の一員と言われますが、最初の頃は子どもたちも、まるで妹ができたかのように、奪い合って抱っこをして可愛がり、お世話をしていました。

仔犬の成長に合わせてお座りなどの訓練やトイレのしつけをしてくれたのも子どもたちです。

成犬になって手がかからなくなって来ると安心するのか、子どもたちは塾で帰宅時間が遅くなったり、私も仕事の時間を増やしたりして自分の時間は充実しますが、犬のお世話をする時間は少なくなりました。

それでも家族そろって外出した時は、留守の間はいつも玄関で待っていてくれる愛犬の姿がうれしくて玄関のドアを開るなり「ただいま~!置いて行ってごめんね~!」と、声をかけていました。

犬を飼おうと思った理由は、決して愛されたかったからではありません。

でも、飼おうと決めた時は結婚する時の神父様への誓いのように「この仔犬を一生大事にします」と誓いました。

いたずらや粗相をした時は可愛くないと感じることもありましたが、反省した顔も可愛くて甘々に育てていました。

寝るときはいつも私のベッドの上の足元に寝ていて、成犬の頃は軽々とベッドに飛び乗ったり飛び降りたりしていたのですが、老犬になると夜中にもぞもぞと動き出して黙ってこちらを見つめている犬をベッドから下ろしてトイレまで抱っこして連れていくような介護生活になりました。

犬ですのでもちろん会話はできないのですが、目が合えば大体の話は通じるような気がしました。以心伝心。相思相愛。

その眼に見つめられているだけで愛されていると分かるような気がしました。

病気で亡くなる前の3日間は、お腹が痛いと鳴く姿に耐えられずずっと抱っこをしていました。亡くなってから分かったのですが、家族全員が愛犬の痛そうに鳴き続ける声に耐えられずに安楽死を考えていたそうです。

1日でも長生きして欲しいという思いと、最期は苦しまずに逝ってほしいという思い、でもこれは自分が「寂しいから死んで欲しくないと思う一方的な感情」で、エゴなのではないか…と反省するとても複雑な気持ちでした。

仔犬の頃はまるで自分の子どものように愛おしく感じていたものが、犬の成長と共に家族になり、やがては母のように感じました。

歳をとって、足元がおぼつかなくなっても頑張って玄関にお迎えに来てくれる姿がとても嬉しかったです。

今はもう玄関を開けた時に愛犬の姿が見えないのがとても寂しくて、言い方が変かも知れないのですが、今までは愛犬が「お帰り」と言ってくれていたように感じるのです。

それは母親が「お帰り」と言ってくれる感覚と一緒です。

インナーチャイルドを癒す

愛犬が亡くなって初めて、私(6歳くらいのインナーチャイルド)は母親から「お帰り」と言われたかったんだと気付きました。

そしてどれほどの愛を愛犬から貰っていたのかを自覚し、幸福感に包まれました。

人間がペットをこんなにも愛しているのはなぜでしょう。

エーリヒ・フロムのいうように「愛は与えることであり、もらうことではない」としたら、私は純粋にペットを愛していたことにはなりません。

私はペットを愛する代償としてペットからも愛されたかったのです。

たくさん愛したら、私のことも愛して欲しい。眼を見て「お帰り」と言われたいと、インナーチャイルドが訴えていたのでしょう。

もしかしたら人は両親から貰えなかった分の愛情をペットに求めているのかも知れません。